好きなキャラが変わるのは、自分が変わったからなのか

昔いちばん好きだったキャラクターと、いま好きなキャラクターが違う、ということはよく起こります。作品への愛情が薄れたわけではなく、むしろ同じ作品を何度も見返した上で、好きな相手だけが変わっていることもあります。

これは気まぐれではありません。変わった理由をたどっていくと、作品ではなく自分の側に、変化の説明がたいてい見つかります。

見る位置が変わると、映る人が変わる

同じ物語を見ているのに、好きなキャラクターが変わる。これは物語の側が変わったわけではないので、原因は見る側にあります。年齢を重ねると、物語の中で自分がどこに立っているかが変わり、感情移入する相手も一緒に動きます。

自来也が沈みながら文字を刻む場面を、若いころは彼の教え子の視点で見ていた人が、年齢を重ねてから自来也の側で見るようになる、ということが起こります。物語は一文字も変わっていないのに、自分がどちらの立場で読んでいるかが変わっているからです。この移動は一度きりではなく、状況が変わるたびにまた起こります。

立場の移動は、成長という言葉で片づけると単純になりすぎます。どちらの立場にも、まだ両方の時期の自分が残っているというほうが実感に近いはずです。

一度しか渡されなかった言葉の重さ

煉獄杏寿郎が最期まで胸にしまっていた言葉は、母からたった一度だけ渡されたものでした。何度も聞かされた教えではなく、一度きりの言葉を、彼はその後の人生でずっと自分の中で繰り返し続けていました。この場面を、若いうちは劇的な最期として見ていた人が、年齢を重ねてから、あの一度きりの言葉のほうに視線を移すことがあります。

自分の中に、誰かから一度だけ渡されて、今も反芻している言葉があるかどうか。それに心当たりが増えるほど、この場面の重心も変わっていきます。作品は同じでも、どの一言を拾うかは、そのときの自分の持ち物次第です。

助けなかったことで、初めて分かる支え方

ドラえもんが、のび太を助けたくなる場面で道具のポケットに伸ばした指を途中で止め、見届ける側に回ることだけを選んだ場面があります。いつも先に動いていた手が、この日だけは自分からブレーキをかけています。子どものころはこの場面を寂しいと感じていた人が、大人になってから、それを支え方の一つとして読み直すことがあります。

助けないという選択が、見放すことではなく、信じることの一形態だと分かるのは、自分が誰かを見守る側に回った経験があるかどうかによります。同じ場面が、見る側の立場が変わるだけで、寂しさから信頼へと意味を変えます。

見守るという行為は、何もしないことと紙一重に見えます。その紙一重の内側にいたことがある人だけが、道具に伸びかけた手の重さを正確に測れます。

殴り合ってからでないと、伝わらないものがある

アルフォンスとエドワードが、言葉ではなく殴り合ってから、ようやく安心できた場面があります。言葉で確かめ合うより早く、拳のほうで先に納得してしまう関係です。この場面を、かつては乱暴な兄弟げんかとして見ていた人が、あとになって、言葉を尽くすより先に体が納得を選ぶこともあると知ってから、見え方を変えることがあります。

好きなキャラクターが兄から弟へ、あるいは弟から兄へ移ることもあります。同じ一場面でも、どちらの側の安心に自分を重ねるかは、そのときの自分の状態次第です。

涙を見て、戦うことをやめられるかどうか

ミュウツーが、流れた涙を見て戦いをやめた場面があります。理屈で説得されたのではなく、涙という一点だけで、それまでの判断を止めています。この場面への反応は、年齢によってはっきり分かれます。強さで語られる展開を求めていた時期には物足りなく映り、何かを守るために引くという判断の重さが分かる時期には、いちばん深く刺さる場面に変わります。

涙は言葉より説明を要しません。説明を要さない分だけ、受け取る側の年齢や経験がそのまま反応の差になって出てきます。

好きなキャラクターが変わったと気づいたら、その変化を惜しむより先に、今どの場面に自分が止まっているかを確かめてみてください。自来也の側、煉獄の一言、ドラえもんの止めた手、アルフォンスたちの拳、ミュウツーの涙——どれに今いちばん近いかで、今の自分がいちばん正直に映ります。

この話の材料になった場面

どの場面で息を止めたかということが、あなたの何を指しているか。
そこが分かれるところに、あなたの性格が出ます。

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